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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第4節 狐媚霞 [7]




 臭いと明かりでぼんやりしてくる頭は自然と重くなる。俯き加減にのろのろと歩いていた美鶴は、突然立ち止まった霞流の背中に危うくぶつかりそうになった。
「霞流さん?」
 だが、振り返る相手は笑うだけ。見ると、彼の目の前に一つの扉。薄汚れた、どこかの店の裏口のようだ。
 辺りを見渡すと、近くにはゴミ袋の山。猫が一匹、走り去る。二人の他に、人影は無い。
「ここですよ」
 言って霞流がゆっくり押すと、奥には下に降りる階段。細く薄暗い階段。美鶴を中へと促し、霞流が扉を閉じると本当に足元の数段しか見えない。
 霞流が、再び美鶴の前に立って降りていく。遅れを取らぬように必死で後を追う。降りた突き当たりにはまた一つの扉。真っ赤に塗られた、見るからに重そうな扉。
「あのっ」
 およそ霞流が訪問するに似つかわしくない雰囲気。美鶴は思わず霞流の上着の裾を掴んだ。
 今日は、まだ終わってはいなかったのか?
「ここは?」
 その言葉に、霞流はゆっくりと振り返った。薄明かりの中で金糸が揺れた。顔を青白く照らし、綺麗と言うよりどことなく不気味だ。
 そんな、現実離れした明かりの中で、霞流はゆったりと歌うように笑った。
「君が望むモノをあげよう」
 そうして、両手で大仰に扉を開けた。
 ―――――っ!
 まず、その音に圧倒された。
 ドンドンと身体に響くような激しい音楽。ギラギラと明かりを撒き散らす照明装置。眩しいくらいに明るくなったと思えば、漆黒を塗りたくったように真っ暗となる。
 そんな荒れ狂ったような世界の中で、何かが怪しく(うごめ)きまわる。
 人間だ。
 身動きもできぬほど詰め込まれた人間たちが、軟体動物のようにヌルヌルと移動する。
 ここは?
 デップリと太った脂ぎった身体に、ピエロのような真っ白な身体が絡みつく。化粧だか仮装だかわからないような身なりの人間が、表情もわからない闇のような相手の身体に圧し掛かっている。部屋の隅で、光も当らぬ闇の中で掌がのた打ち回り、両足の間を這いずり回る。
 男か女か? 白か黒か? 光か闇か? 夢か現か? 何一つ判別のつかぬ狂気のような世界を、怒声のような音楽が包む。
「ここは?」
 瞠目したままの美鶴の前に、一人の人間がズルリと闇から姿を引きずり出す。
「あらぁ 慎ちゃん」
 甘く鼻に掛かるような声と共に、その身体をグニャリと揺らした。そうして両腕を霞流の首に巻きつける。
 気持ち悪い。
 だが、霞流慎二は抵抗もしない。
「霞流さん?」
 不動のまま美鶴の呼びかけにも応じることなく、相手の姿に半眼を向ける霞流慎二。そうして、引き寄せられるまま、上半身を傾けた。
 あっという間に二人の唇は重なった。
 唖然としたまま声も出ない美鶴の目の前で、二人は、それはそれは甘く濃厚な口付けを交わす。相手はその味を堪能するかのように、慎二はまるで人形のように半眼のまま、満足するまでお互いを重ねあう。
 そうしてたっぷりと確認し合い、相手はようやく腕を緩めた。二人の唇の間を、細くネットリとしたものが糸を引く。
 その間もまったく表情一つ変えない慎二の瞳に相手はクスッと笑い、そうしてようやく美鶴の存在に視線を向ける。
「あらぁ?」
 腰をクネらせ、小首を傾げる。
「慎ちゃんの玩具(おもちゃ)にしては、ずいぶんと可愛らしいわね」
 お… も、ちゃ?
 驚愕し、硬直したまま身動きも取れない美鶴へ向かって、慎二がようやく顔を向けた。そうして笑った。
「さあ、おいで」
 華のような笑顔だ。誰一人、見過ごす事はできないだろう。一瞬でも見せられれば脳裏に焼き付き、決して忘れることなどできない、実に(あで)やかな華のような笑みだ。
 そんな妖艶な、夢のような笑顔で、慎二は美鶴へ手を伸ばした。
「僕の事が好きなんだろう?」
 優しく囁く。
「僕の優しさが欲しいんだろう?」
 暖かく笑う。
「僕の意見が聞きたいんだろう?」
 金糸が意志を持つかのごとく、ゆらゆらと慎二のまわりを揺れる。
「いいよ、僕が君を、楽にしてあげる。幸せにしてあげるよ」
 ただし、幸せなんてものを、あげる事ができるのならね。
 慎二から伸ばされた、細く白い指。その切っ先が腕に触れた途端、美鶴の身体に電流が走った。
 身の内で、緑色の異物が蠢く。
 差し出された霞流の白い指に誘われるように、大きくうねって自分の中から()()り出されるような醜感(しゅうかん)。目の前で揺れる白い指も、まるで意志を持った軟体生物のよう。ズルリと身の内から這い出した魔物を、絡め取ろうと優しく誘う。
 美鶴は弾かれたように身を揺らした。見上げる先で、霞流が笑う。その唇はしっとりと濡れ、真っ赤に染まって三日月に歪む。
「さあ、君の望むようにしてあげる」
 (いびつ)な享楽。
 まるで稲妻に打ち抜かれたかのように、美鶴の身体が飛び上がった。
「いっ やぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 その声が自分の喉から飛び出したものなのか、それとも胸の中でのみで叫ばれたものなのか、当の美鶴にもわからない。だって、何が現実で何が虚実なのか、何一つ判別のつかない世界なのだから。


------------ 第10章 カラクリ迷路 [ 完 ] ------------





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